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作家人生

  • 〜25歳
  • 26歳〜
    45歳
  • 46歳〜
    65歳
  • 66歳〜
昭和6年
(誕生)
4月16日(戸籍は9月1日)、黒岩信行、幸枝の長男として滋賀県彦根市芹橋九丁目に生まれる。本名、黒岩幸彦。家業は祖父が興した映画館経営であった。
昭和18年
(12歳)
友人の兄から借りた江戸川乱歩の短編集に感激し、古本屋で買っては熟読する。祖父の亡き後、映画館経営を継いだ父が相場に失敗。映画館は人手に渡り、黒岩一家は大阪に移住。
昭和19年
(13歳)
関西学院中等部に入学。すぐに勤労動員にかり出され、尼ケ崎の軍需工場に通う毎日となる。軍需工場ではアメリカ兵の捕虜たちと親しくなり、英語を教わる。
昭和20年
(14歳)
父に召集令が来て出征。勤労動員先が山の開墾作業に変わり、六月に尼ケ崎の軍需工場が空襲で壊滅。捕虜たちの爆死を知る。8月、終戦。終戦一週間後、父が帰還。
昭和22年
(16歳)
六二二・三制度の発足により関西学院高等部入学。藤原義江歌劇団をみて感動し、オペラ歌手になることを決意。
昭和23年
(17歳)
父の命令で心斎橋にある英会話塾に通わされたが、塾には行かず街の将棋クラブに通い、一局5円の賭け将棋に月謝を注ぎこむ。指導はプロ棋士、南口繁一八段であった。学校では剣道部に入部。試刀術の大家である顧問のもと、部員は据物斬りの稽古に励む。
昭和24年
(18歳)
高等部の学生会長になる。オペラ熱はますます昂じ、宝塚劇団を含め歌劇に没頭するが、自分の歌唱力をテストするために妹の三代子を連れて出場したのど自慢大会に3度続けて落選。一方、嫌々出場した妹は3度とも優勝。気持ちがいじけてオペラ歌手になる夢を放棄する。変わって演劇に興味を持ち、学生会長の特権で演劇部を設立。自ら脚本を書き、主役も演じる。兵庫県演劇コンクールで脚本が一等賞を受賞。
昭和25年
(19歳)
関西学院大学・法学部入学。大学演劇部と対抗して、先輩たちと『劇団エチュード』を設立。もっぱら創作劇を発表する。岡本綺堂「半七捕物帳」を愛読し、『奇譚クラブ』に傾倒する。
昭和26年
(20歳)
大衆演劇志向の鬼六は方向性が合わず劇団エチュードを退部。
昭和27年
(21歳)
軽音楽部にマネージャー兼歌手として入部。定期演奏会や文化祭では予算がないため妹の三代子をシンガーとして起用する。部員の同期には高島忠夫が在籍、ドラムを担当。
昭和29年
(23歳)
父の相場の失敗で黒岩家の生活は困窮を極め、学費と生活費を稼ぐためアルバイトとバクチに精を出し過ぎ、落第。軽音楽を辞めて、また劇作の勉強を始める。井原西鶴を熟読するようになる。妹の三代子、楽団ブルーコーツのオーディションに合格し、上京。ジャズ歌手としてデビューする。
昭和30年
(24歳)
大村教授が教鞭をとる英文講読の追試に合格してようやく卒業。小豆相場に失敗して多額の借金を抱える。妹を頼って上京し、洋画と軽音楽を紹介する映画雑誌『スターストーリー』に翻訳要員として入社するが、アメリカのゴシップ記事を翻訳する仕事は性分に合わず、4ケ月で退社。以後、大学時代の先輩の引きで日劇ミュージックホールの照明係になるなど、職を転々とする。
昭和31年
(25歳)
妹のアパートの居候になって昼は劇作の勉強、夜は新宿の場末をうろついていた。その頃『奇譚クラブ』の懸賞小説に初めて書いたSM小説「お町の最後」をペンネーム・花巻京太郎で投稿、1位に入選する。文藝春秋社の『オール讀物』新人杯に、大阪の放蕩無頼漢を主人公にした「浪花に死す」をペンネーム・黒岩松次郎で投稿、佳作入選する。劇作より小説の方によろめき始める。
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昭和32年
(26歳)
『オール讀物』新人杯に相場に取り憑かれた親子を描いた「親子丼」を投稿、入選する。文藝春秋社の香西昇氏の知遇を得て、文春クラブに出入りするようになる。旧青線地帯を舞台にした「お化けの街」が濱本浩氏、野上彰氏に褒められ、出版化を勧められる。
昭和33年
(27歳)
『オール讀物』応募原稿を収めた短編集『宿命の壁』を五月書房より処女出版、出版記念パーティを文藝春秋社の地下ホールで開く。発起人は丸尾長顕、川上康範、濱本浩。五月書房より長編相場小説「大穴」刊行。破天荒な学生相場師の活躍を描いたこのエンターテインメント小説はヒットする。
昭和34年
(28歳)
松竹と日活より「大穴」映画化の申し込みを受け、結果、松竹に決定。経済誌『富士』に「相場師列伝」を連載。もっぱら相場小説を書くようになり、いずれも好評でまとまった原稿料を定期的に得るようになる。新橋にて面白半分に酒場経営に乗り出す。これが香西氏の逆鱗に触れ、絶交を申し渡される。
昭和35年
(29歳)
松竹より「大穴」公開。監督・内川清一郎、脚本・菊島隆三、主演・芳村真理、杉浦直樹。酒場は赤字続きで、酒と女に溺れているだけの自堕落な日々。
昭和36年
(30歳)
酒場経営は依然として赤字。詐欺にも遭い、ますます苦境に陥る。生活は荒れて文芸小説は書けなくなり、自嘲気味に悪魔小説を書き、『奇譚クラブ』に花巻京太郎のペンネームで「花と蛇」を投稿。
昭和37年
(31歳)
『奇譚クラブ』に「花と蛇」が三号にわけて掲載され、反響を呼ぶ。SM雑誌『裏窓』の編集長・須磨利之氏と知り合う。金策に尽きて相場に手を出すが失敗、酒場は壊滅する。すべての女性関係を清算して、田舎教師として再出発をはかるべく神奈川県は三浦半島の三崎に向かう。『奇譚クラブ』の吉田稔編集長より「花と蛇」の続行を催促されるが、断る。
昭和38年
(32歳)
同中学の英語教師・板倉三枝子と結婚。『奇譚クラブ』の吉田編集長から再三、「花と蛇」連載再開の依頼があり、ペンネームを団鬼六にして再開する。執筆はもっぱら教室、生徒に自習させて自分はエロ小説を書く不良教師であった。長男・秀行誕生。
昭和39年
(33歳)
「花と蛇」は連載十五話で当初の予定どおり一旦終了するが、あまりの反響にすぐに「続・花と蛇」を継続連載する。「大穴」が植木等主演でテレビ化される。
昭和40年
(34歳)
東京の友人からテレビ洋画制作会社『テレビ放送』への就職を勧められ、教師を辞して妻子を連れて再度上京する。外国テレビ映画の翻訳、声優用の台本を製作する日々が始まり、鬼六はヒッチコック劇場、バークレー牧場などを担当。アルバイトでピンク映画の脚本を書き始める。
昭和41年
(35歳)
『テレビ放送』は経営悪化で倒産。神奈川県の真鶴の畑付きの貸家に家族で転居。英語塾の看板を掲げ、畑を耕す生活を始める。晴耕雨読の傍らピンク映画の脚本依頼が殺到。映画会社の担当は東京から真鶴まで原稿を取るために車を飛ばすことになる。また『奇讃クラブ』連載中の「花と蛇」もますます好調で、原稿料は従来の倍になった。
昭和42年
(36歳)
ピンク映画会社の社長の紹介で谷ナオミと出会う。谷ナオミは故郷の博多を飛び出して一年目、十九歳だった。長女・由起子誕生。
昭和44年
(38歳)
谷ナオミを主演にした脚本は大当たりを連発。上京してピンク映画製作プロダクションを設立。鬼プロダクション、通称:鬼プロが誕生する。社員にたこ八郎、杉浦則夫、紅真知子。映画製作と同時にたこ八郎を座長にしたピンク劇団を結成し、ポルノ映画館にアトラクションとして送り込む。
昭和45年
(39歳)
映画製作は月平均一本と順調。脚本だけではなく監督として指揮をとることもあった。脚本、演出を手がけるたこ八郎一座も好評。芳賀書店と提携して緊縛写真集を毎月刊行する。
昭和46年
(40歳)
渋谷の三信マンションに転居。双葉社『週刊大衆』にて「隠花植物群」の連載スタート。イラストは黒田征太郎。桃園書房『小説クラブ』の連載スタート。東京三世社『SMセレクト』、司書房『SMファン』が創刊され、これらのSM雑誌を含めて月産原稿枚数は五百枚を突破。芳賀書店より篠山紀信、宇野亜喜良、団鬼六合作「緊縛大全」刊行。芳賀書店刊行の写真集製作は本書で終了とする。目黒に転居。
昭和47年
(41歳)
『SMセレクト』の発行部数は十万部を突破し、様々なSM雑誌が巷の書店に堂々と並ぶようになる。鬼プロは映画製作を停止させ、雑誌『SMキング』を創刊させる。
昭和48年
(42歳)
鬼プロの社員数は八人になり、幹部はすべて女性で占められた。
昭和49年
(43歳)
友人の手形保証をしたために二千万円の負債を背負う。負債の清算と執筆のため鬼プロを解散。債権者に支払いを済ませ、『SMキング』の執筆陣を渋谷の料亭に招き、鬼プロずっこけパーティを開く。日活ロマンポルノの本格SM路線、第一弾として「花と蛇」が映画化される。監督・小沼勝、主演・谷ナオミ。
昭和51年
(45歳)
日劇ミュージックホールに出演した谷ナオミのショーを演出する。東京三世社が団鬼六賞を創設。第一回鬼六賞の受賞者は姫野カオルコ。
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昭和52年
(46歳)
世田谷・奥沢へ転居。『SMセレクト』『小説SMセレクト』『SMファン』『別冊・SMファン』『コレクター』『SMクラブ』『スナイパー』『別冊・スナイパー』等、原稿を渡す雑誌社は8社以上になる。
昭和54年
(48歳)
谷ナオミ引退。引退作品は女胴師・緋桜のお駒を演じた日活「縄と肌」。谷・鬼六コンビのSM路線は、谷が引退するまでに製作本数15本。日活のドル箱コンビであった。
昭和55年
(49歳)
横浜・桜木町のメリヤス工場跡地を購入して転居。サンケイスポーツ紙にてエッセイ「鬼六あぶらんだむ」の連載スタート。東芝EMIより演歌「あきかぜ」をリリース、京王プラザで新曲発表パーティを開く。
昭和56年
(50歳)
エッセイのみならずスポーツ紙に官能小説連載が始まる。
昭和57年
(51歳)
鬼プロを復活させ、脚本「黒髪縄夫人」を製作(日活配給)。
昭和58年
(52歳)
妻・三枝子と離婚。鬼プロを終焉させる。三一書房より『団鬼六暗黒の世界』刊行。
昭和59年
(53歳)
角川書店より「花と蛇」以下一連のSM小説文庫が刊行。宮本安紀子と再婚。
昭和60年
(54歳)
富士見文庫「花と蛇」以下夫人シリーズ刊行。大陸書房『鬼六全集』を刊行。白夜書房より書下ろし自伝「蛇のみちは」刊行。
昭和61年
(55歳)
次男・信彦誕生。横浜の地所に豪邸建築の計画を立て、犬小屋を作らせた大工を棟梁にして設計計画を練る。
昭和62年
(56歳)
横浜・宮崎町に総工費五億円、地上二階、地下一階の豪邸を建設。落成式には木遣り、纏・御輿など、彫友会(鬼六が顧問を務める刺青愛好会)総出で練り歩き、宴会は朝まで続いた。現アマ名人と異端のアマ強豪・小池重明の対局を企画、主催し、『近代将棋』にて「果たし合い」のタイトルで連載する。
平成元年
(58歳)
断筆宣言する。理由は「もう、わいも六十や、ポルノは書けまへん」ということだった。日本アマチュア将棋連盟発行の機関紙『将棋ジャーナル』が廃刊に追い込まれ、買い取る。老後の楽しみとして手を出した好きな将棋の本の出版が、老後の苦しみと化すのである。
平成2年
(59歳)
断筆宣言後は、将棋に関するエッセイだけを執筆する。巷のSM雑誌が相次いで廃刊し、定期的に印税の支払いがあった出版社も倒産。『将棋ジャーナル』は毎月半分返本される前途多難な再スタート。
平成3年
(60歳)
還暦を迎える。『将棋ジャーナル』誌上には対局後のプロ・アマ棋士引き連れての打ち上げレポートがたびたび掲載され、宴会ジャーナルの異名を取る。小池重明を誌面に登場させてプロ棋士と対戦させた号だけ、不思議に売り上げが伸びた。
平成4年
(61歳)
折りあるごとに自宅や横浜の繁華街で宴会を開く。『将棋ジャーナル』の経営はますます悪化し、赤字はついに毎月二百万を超す。小池重明病死す。
平成5年
(62歳)
バブル崩壊で銀行から融資をストップされる。
平成6年
(63歳)
『将棋ジャーナル』廃刊。ますます窮地に追い込まれ、長年、蒐集してきた刀剣類をすべて売却する。かつては七億円の値もついた豪邸は二億円に値下がりして、銀行の競売にかけられる。生活のため復筆宣言し、小池重明の半生記の執筆を開始。山海堂より書き下ろし人物評伝「米長邦雄の運と謎」執筆。従来のポルノとは違って文学的な筆致であった。
平成7年
(64歳)
イーストプレス社より「真剣師 小池重明」刊行。『本の雑誌』一九九五年のベスト一○の第五位にランクされる。
平成8年
(65歳)
競売、落札が決まって、執筆しながら横浜から東京・浜田山の借家に移り住む。朝日ソノラマより「外道の群れ」刊行。幻冬舎より「真剣師 小池重明」が文庫化され、十万部のヒットとなる。文芸雑誌連載が増え始める。新潮社『小説新潮』に書いた「不貞の季節」が話題を呼び、日本文藝家協会編『現代の小説1996』に収録、徳間書店より刊行される。幻冬舎がアウトロー文庫創刊にあたり、鬼六の旧作が刊行されることになる。テレビ朝日『徹子の部屋』に出演。
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平成9年
(66歳)
雑誌、新聞、週刊誌の連載が増え、昭和50年代の締め切りに追われる多忙な日々が再来する。新潮社より「美少年」刊行。文芸誌で高い評価を受ける。講演活動中に脳梗塞の発作で倒れ、入院。麻痺した左手に点滴をぶら下げ、頭には鉢巻、わずかに動く右手でベッドに胡坐をかいて執筆を再開。『小説現代』『小説新潮』の短篇2本を一週間で仕上げ、病室に原稿を取りにきた女性編集者を驚かせる。幸い発作は大事に至らず、これが最期だと思い込んで贈ってしまった形見分けの返却を数人に申し出るが断られる。
平成10年
(67歳)
作家活動40年を迎える。週刊誌に寄稿したバイアグラ体験レポートが話題を呼ぶ。鬼六を囲む親睦会・鬼の会のくじ引きの賞品にもバイアグラを出し、編集者の間で争奪戦となった。
平成11年
(68歳)
幻冬舎より鬼六ワールドの集大成として『花は紅―団鬼六の世界』、残酷時代小説「最後の浅右衛門」刊行。鬼の会・ミレニアム大旅行会は熱海へ。冬の打ち上げ大花火大会を見ながら、どんちゃん騒ぎ。
平成12年
(69歳)
映画「不貞の季節」(監督・廣木隆一、主演・大杉連)公開。角川書店より「大穴」が復刻。文藝春秋『Title』誌上で福永法源と対談し、バス旅行に招待するも、対談の数日後に福永法源は逮捕される。六本木の高級ペットショップでラブラドールの雌の子犬を購入。近くを流れる有楢川にちなんでアリスと命名する。浜田山のキャバクラでさくら嬢と出会う。
平成13年
(70歳)
古希を迎える。「外道の群れ」を原作として、竹久夢二生誕120周年記念作品映画「およう」(松竹/監督・関本郁夫、主演・熊谷哲也)公開。
平成14年
(71歳)
さくら自死。監督・脚本・原作を手がける「紅姉妹」(主演・小川美那子)公開。ブックマン社よりコミックス「紅姉妹」(作画・如月次郎)刊行。
平成15年
(72歳)
新潮社より「最後の愛人」刊行。講談社より「外道の女」刊行。
平成16年
(73歳)
バジリコより「牛丼屋にて――団鬼六自薦エッセイ集」刊行。文藝春秋より自伝小説集「生き方下手」刊行。映画「花と蛇」(東映/監督・石井隆、主演・杉本彩)公開。R18指定ながら異例の大ヒットとなる。腎不全の兆候が出現し始める。
平成17年
(74歳)
太田出版より「妖女」「新・修羅の花道」刊行。集英社よりコミックス「外道棋記1――真剣師小地重明」(作画・柳葉あきら)刊行。鬼六・杉本コンビ第二弾、映画「花と蛇2 パリ/静子」(東映/監督・石井隆、主演・杉本彩)公開。エルフよりゲーム「花と蛇」発売。腎不全の検査入院をするが、三日目で病院を抜け出し銀座のクラブへ逃走する。
平成18年
(75歳)
腎機能の指数が悪化。医師より人工透析を宣告されるが断固拒否。「団鬼六、透析拒否」の見出しが芸能スポーツ紙の一面を飾る。誕生日は新宿で風俗嬢を集めてどんちゃん騒ぎ。「俺の腹上死の相手になってくれる女はおらんか」の呼びかけに風俗嬢たち全員が挙手した。幻冬舎より「快楽なくして何が人生」刊行。
平成19年
(76歳)
友人の紹介で腎臓専門病院の院長と出会い、透析導入を決意。二日に一回の透析生活が始まる。一命をとりとめてから、各社の原稿依頼は「最後の書下ろし」から、「復活第一作」「奇跡の生還、新連載開始」などに変更され、中断していた連載や執筆を再開。死を覚悟していた一年前とは一転、多忙な日々となる。
平成20年
(77歳)
喜寿を迎える。透析一周年と喜寿のお祝いを兼ねて、鬼の会・隅田川屋形船を開催。講談社よりエッセイ集「我、老いてなお快楽を求めん」刊行。幻冬舎より『鬼ゆり峠』刊行。祥伝社より「地獄花」刊行。朝日新聞出版よりエッセイ「体の闇がわかる本──SかMか」刊行。
平成21年
(78歳)
祥伝社より「ただ遊べ帰らぬ道は誰も同じー団鬼六語録」刊行。ブログ、ツイッター開始。新潮社より「往きて還らず」刊行。小説新潮にて官能小説「倒錯一代女」を発表。河出書房新社より「肉の輪舞」刊行。 新宿『黒鳥の湖』にて「往きて還らず」の出版パーティ開催。
平成22年
(79歳)
1月食道ガン発覚。講談社より「悦楽王-鬼プロ繁盛記」刊行。無双舎より往年の官能小説を刊行。四月小説新潮にて「我、ガンになりたりー残日録」手記発表。手術を拒否し、「死ぬまで生きることを欲す」とブログで発表。大きな反響を放つ。夏、小向美奈子主演「花と蛇3」東映にて劇場公開。9月ライフワークとして「私本 西鶴草子」執筆。KKベストセラーズより「シルバー世代の性愛学」刊行。将棋世界にて「棋士交友列伝-鬼六おぼろ談義」隔月連載開始。「往きて還らず」北区つかこうへい劇団にて上演。講談社より「死んでたまるか―自伝エッセイ」刊行。銀座白いばらにて同エッセイ出版記念パーティを開催。
平成23年
サン出版サンロマン文庫より、写真絵で見る官能小説エッセイ文庫刊行。文芸春秋文庫より「不貞の季節」刊行。三月大震災後、自粛ムード漂う中、「こんな時だからこそ、」とサロンバスを貸し切っての大名旅行、四月、仲間を呼び集め最期のどんちゃん騒ぎと称し、花見屋形船を出す。四月末エッセイ「愛人犬アリス」を書き上げる。現役を貫き通し、最期まで色濃く、鮮やかに生き抜いた。5月6日享年79歳にて永眠。
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